1.概要
1.1 事故発生
1985年8月12日この事故は発生しました。単独事故としては最大の死者を出し、航空史上最悪の事態となりました。当時私は小学5年生、夏休みを利用して日本海の方へと家族旅行をしておりました。旅行初日で旅館に到着し、テレビをつけた時にはすでに「日本航空機行方不明」ということで大騒ぎになっていた記憶があります。
事故に遭った旅客機は羽田発大阪行きの日本航空123便で18時00分発の予定でした。123便の乗員は高浜雅己機長(49)、佐々木祐副操縦士(38)、福田博航空機関士(46)、及び波多野純チーフパーサー(39)ら15名でした。乗客は夏休みの帰省時期ということもあり、ほぼ満席の509名でした。その結果乗員所客524名中520名が死亡するという大事故になってしまったわけです。
東京空港事務所に提出されたフライトプランは以下のとおりでした。IFR(計器飛行方式)で巡航速度(真対気速度)467kt、巡航高度24000ft。コースは羽田→三原→相良→シーパーチ→W27→串本VORTAC→V55→信太VOR/DEM→大阪NDB→伊丹であり、予定所要時間は54分、3時間15分相当の燃料を搭載していました。
123便は18時04分にランプアウトしました。これは予定より4分遅れでした。18時12分に15L滑走路から離陸し、18時17分、東京コントロールに「現在位置からシーパーチへ直行したい」と要求し、18時19分頃に許可を得ています。シーパーチは、非義務位置通報点(大島から磁方位253度74マイルの地点)のことです。
18時25分頃、高度24000フィートでシーパーチに向かっていた123便は、緊急事態発生を東京コントロールに報告し、「22000フィートに降下しこの高度を維持し、羽田に引き返したい(Ah,TOKYO. JAPAN AIR123 request from immediate e- trouble, request return to HANEDA descend and maintain 220.)」旨と、大島へのレーダ誘導を要求しました。東京コントロールが「右旋回か左旋回か?」の質問に対し、"Going to right turn"と答えているため、既に右旋回しつつあったようです。ただ、この旋回が機長の意思によるものか、爆発(?)のショックで機体が右を向いたのかは、私にはわかりません。しかし123便は、実際には右旋回は行わず、伊豆半島南部中央でやや右へ進路を変えながら駿河湾上空へと出ています。
何故、左旋回して海に向かわず、山のある方角である右旋回を取ったのかという疑問は解決していません。一番有力な説としてあがっている説は次のとおりです。123便のこのフライトは副操縦士の機長昇進への試験飛行でした。その結果、左側の機長席には副操縦士が座り、右側の副操縦士席には機長が座っていました。従って、機長は自分の視界の効きやすい右旋回を取ったのではないか、というわけです。
18時27分頃、東京コントロールの「どのような緊急事態か?」の問いに対して、123便は応答しませんでした。この頃コックピットでは、油圧を失い制御が効かないという事実に直面していました。
18時28分頃、「右旋回し、磁方位90度にせよ」との指示を受けたが、123便は「現在操縦不能」と応答しています。その後、焼津北方上空を通過して、右に旋回して北に向かっていきました。東京コントロールの「降下可能か?」の問いに対して「現在降下中」と応答しています。東京コントロールの「現在位置は名古屋から72マイルであるが、名古屋に着陸しますか?」に対して「羽田に帰る」と要求しました。その後の会話は一部英語を混じっていますが、日本語で行われました。このような航空機と管制官との会話は基本的には英語が用いられますが、緊急事態でパイロットに負荷を与えると判断された場合は日本語での応答が行われます。
18時33分、カンパニー(123便と日航社間)無線で「R5(右側最後部)のドアが故障、緊急降下中」であることを報告しています。
18時35分頃、123便は富士山の西方15マイル付近で右旋回し、一旦東へ向かったが、18時38分頃、富士山北西3.2マイル付近で左旋回、18時41分頃、大月市上空で360度以上の右旋回を行い、その後東に向かって降下しています。この大月市上空での大旋回については、高度を下げるためへの距離稼ぎではないかという説があります。この頃「いっぱいやったか?」「舵いっぱいです」というコックピット内の会話が録音されており、意図的に舵を取っているように想われますが、DFDR(デジタルフライトデータレコーダ)の記録を見ますと、舵を左にいっぱい切っているようです。つまり大きく右旋回する機首を抑えようとしているように私は感じます。しかし真相は不明です。
18時46分頃、「操縦不能」と連絡し、左旋回を行い北上後、再度「操縦不能」を報告しています。18時49分頃、奥多摩付近で左旋回し西北西へ進んでいます。この頃、秩父奥多摩の山々を避けるために必死の努力が行われていました。18時54分頃、再び「操縦不能」を伝えてきています。
18時55分頃、123便は現在位置を東京アプローチに要求し、「羽田から北西55マイル、熊谷の西25マイル」である事を知りました。その後、機首は下を向きはじめ、速度が加速し、急降下し始めます。その後、123便からの応答は途絶えました。
18時56分、群馬県上野村の御巣鷹山(正確には高天原)に墜落、炎上しました。乗員乗客524名中520名が亡くなるという大事故でした(実は胎児の遺体も見つかっており、正確には521名の命が失われました)。
運輸省事故調査委員会により、事故原因の究明が行われて行きます。その後、1978年の「しりもち事故」の際の圧力隔壁修理ミスをボーイング自らが表明を行い、この事故原因は圧力隔壁犯人説へと突き進み、お粗末な事故調査報告書が作成されました。
1.2 JAL123便(JA8119号機)
日本航空株式会社所属ボーイング式747SR-100型JA8119号機は、1974年1月30日に第20783号として製造され、翌月に日航へ引き渡されました。
総飛行時間は25030時間18分、総着陸回数は18835回でした。No.5C整備(3000時間点検)後の飛行は1700時間31分、着陸回数は1240回でした。この飛行機は747SRはジャンボジェットの1種であるが、SR(Short Range)という名称のとおり、1回の飛行距離が短く、着陸回数が多い日本の国内線向けに脚部を補強してあるなどの改造が加えられている機種です。
またJA8119号機は過去に2回の大きな事故に遭っています。
昭和53年(1978年)の大阪国際空港における「しりもち事故」と、昭和57年(1982年)の千歳飛行場での「エンジン接触事故(エンジンを滑走路に接触)」です。これらの事故の後遺症か、このJA8119号機には、例えばトイレの扉が重いなどの不具合があり、一部では以前から問題視されていた機であったようです。